記憶というものがあるお陰で
人間は夢を見る事ができる
想像や妄想も記憶というデータベースがあるお陰でできる
記憶がなければ夢は見れないし想像もできない
でも僕らはそれになかなか気づかない
人が夢を見る事は当たり前だと認識しているから
何が夢を見させているのか意識した事なんて殆ど無いんじゃないだろうか
人は2度死ぬ
一度目は肉体的な、人間的な活動が機能しなくなり停止した時
二度目は名前を忘れ去られた時
自分の事を話す事で存在感というものを得られるのだとしたら
やっぱりあたしはゴーストのようなものかもしれない
だって顔も名前も知らない人があたしの事を知ってるはずがないし
あたしはその見ず知らずの人が認知している世界では存在していないも同然だし
というか本当に自分が存在しているのかなんて
誰にもわからないでしょう
自分という存在を認知している他者が存在している事が前提として成り立っている記憶の連鎖であって、自分という意識がその他者の記憶によってこの世に繋ぎ止められているだけでしかない
1秒前の自分が本当の自分だと言えるのか私にはわからない
アニメーションのように1秒、また1秒と重なって膨大な時間を有して自分を構成しているだけかもしれない
眠っているときの記憶がないのは
そこに自分の意識が存在していないからじゃないのか
歌詞の引用だけど『眠りは死への先導車なのかもしれない』と
まさにそうだなって思う
目を覚ますまで自分が明日の朝、同じようにここにいれるのか誰にもわからない
最近「自分」というものの存在の話をしたくないと思う
人の話を聞いたり聞き出したりするのは好きだけど
自分の話をするのがあまり好きじゃない
訊かれたら必要な分だけしか答えない
それは自己開示の度合いによるものでもあるけど
訊かれてもいない事柄をぺらぺら喋るのもいかがなものだろうかと思う
だけど自分という者を説明する事で
記憶を他者と共有する事で
存在できているのも確かだと思う
話したくないというのは存在を否定しているようにも思うけど
本当の自分というものが自分で理解できていない
だから言えない
言えてもきっとそれはその場だけのものになるかもしれない
私の面倒くさいところは
自分の話は極力したくないけどこの世にいた証が欲しい気持ちがある事だ
だから尊敬するアーティストの言葉を借りる
「アンディ・ウォーホルという人間について知りたければ、ぼくの絵や映画を、ただ表面的に見ればいい。そこにぼくがいるから。裏には何もないんだ」
もうこの言葉以外のなにものでもないように思う
永遠に生きる事は肉体的に無理だ
でも永遠に生きようとする事はできる
それをどのように実現するかなのかもしれない