top of page
検索
Casper

君へ贈るこの愛の爆弾が、浮ついた仄暗い街に落ちればいい


ふざけたらなんとも形容し難い落書きになりました

世間はバレンタインだそうですが

個人的に日本のバレンタインは好きじゃないです

恋人同士、もしくは思いを伝え合うのはとても素晴らしいことと思うし、

ぜひ実ってほしい

家族へ感謝を伝えるのだってとても素晴らしいと思う

でもこの日本の、そういう気持ちを持ち合わせてはいない

とりあえず女子からチョコは欲しい

チョコ貰えないのって寂しい

義務だからあげなきゃいけない、社交辞令

そういう薄暗い気持ちがどうしても見え隠れする時期なので

個人的に早く終わってほしい月でもあります

なんかツイッターで去年も書いた気がするな、これ

もう1つ言うとバレンタインの歴史も関係していて

ローマ帝国の時代、家庭を築くことは兵士の気力を下げるとして結婚を許されていませんでした

けれどバレンタイン司教があるカップルを密かに結婚させてあげました

それが皇帝へと発覚して結婚前日、つまり2月14日に処刑されてしまう

という血腥い歴史が根底にあります

その亡くなった人たちの愛を偲んで愛を伝える日として手紙や花束を送ることから習慣が生まれたとされています

次第に海外のチョコレートメーカーが日本に参入

けれど当時高級品だったチョコレートは一般に普及せず、

日本のチョコレートメーカーが価格を抑えて発売したこと、当時の若者の価値観によってチョコレートとバレンタインが結びついて今の日本のバレンタインの形態があるわけです

女性から男性へチョコレートをあげるというのも日本独特で

海外では男性から女性へ渡すというのが一般的です

そうこう生意気に言っているわたしですがチョコレートは買いました

亡き祖父の仏間へ上げるお供え用と、お世話になっている両親2人で一緒に食べてもらう用のブランデーボンボンですけども

ここ最近作業していた作品

結論から言うと、アクリルでの着色は楽しかったけど、あたしの絵に合ってないという答えに行き着きました

よく線がきれいだと言われるのと、実際、線を引くのが好きなので

その線を生かせる画材を選ぶべきだという方向になったので

もう一度水彩で、今描いているものを描き直そうと作業中です

最近は一度完成しても気に入らなくて描き直すことが増えてきて

長い時間をかけて駄作を生み出している気がして落ち込むことがあります

でもやっぱり自分が納得したものしか、作品と言いたくないし

形にしたくないっていう

面倒くさいやつです

高校の頃に倫理の授業は無かったけど、資料集は貰ってて

いつか読もうと思って残しておいていたものを、今読むべきだなあと思って読んでます

以下は内容含め、自分の頭を整理する為のメモみたいなものです

アイデンティティ

自分であること

自己の存在証明

と意訳される

一貫性があり、変わることの無い、永久不変というイメージがくっついているように思う

ここで言われている『自分』というものが意識という抽象化された自己ではなく客観的な自己を認識することでアイデンティティを見つけられるんじゃないだろうか

アイデンティティとは常に細分化されたものであり

それを統一するというのは極めて困難なことのようにも思う

というのも自分から見た自分は確かに自分であるけれど

自分以外の人から見た自分と、自分からみた自分との間に生じるイメージの相互関係、イメージの相違によって自分というものが何者なのかという疑問が生じるわけだ

もしかしたら自分という永久不変の存在はただの幻想でしかなくて、存在していないんじゃ無いか、

アイデンティティを探している、

本当の自分を探している、

どれが自分なのかわからない、

というのはアイデンティティというもの自体をどういうものか認識できていない人が言う自分探しの理由でしか無く

関わる人の数だけ自分というアイデンティティは存在している

社会の中の自分、家庭の中の自分、友人の前で喋る自分、ネット上の自分…と常に自己を複数持ち合わせていることになる

それを時間や場面で『最適な自分』を引き出し、人生、あるいはそれを形成して行く1日というある脚本の中で演じている役のようなものなのかもしれない

私以外私じゃないの、と、某バンドは言ったけれど

それは自分自身で認めた『私』というものは私であるが

『それ以外の私』は私ではないということなのかもしれない


閲覧数:5回0件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page