お久しぶりです、キャスパーです。
前回の記事が7月だったので、ざっと3ヶ月は記事を更新していないっていう、いつものあれですね。
いつもの悪い癖ですね。
タイトルの『大抵のことはやればできる、かもしれない』
本当は『やればできる』で切るはずだったんですけど、私のこの醜態が治らない限り断言はできないなってことで不完全な未来形にしました。
毎日ブログを更新しなくても、せめて1ヶ月に1記事更新するっていう目標を、一年かけて臨んでみたいですね。
来年の目標にあげておこうと思います。
さて、最近、その『やればできる』ってものを改めて体感したんですよ。
インスタとツイッターの方で少し書いたんですけど、AWRDとぺんてるさんのコンペのことですね。
ぺんてるの総合カタログ表紙デザインコンペが九月いっぱいでありまして。、それに参加しました。
ご存知の方もいると思うんですけど、旧loftworkさんに登録をしていて、コンペ情報やイベントのメルマガが届くんですね。
ぺんてるさんのコンペ自体は知っていたんですけど、参加は保留にしていて。
ただ色々思う出来事があって、いっちょやってみるかと。
アルバイトもしてるし、妹が帰省してくるし、なんか気に入らなくてやり直しするしで、終わらないような気がしていたんですよ。
でも、何とか締め切りまでに仕上げることができて、
「ああ、こんな自分でもやればできるじゃん」って素直に思えたんですよ。
ちょっとだけ、自信がついた気がします。
プラシーボ効果じゃなければいいけど。
AWRDのHPでも表記したんですけど、書いたり、描くことって、本来なら、自由で楽しいんですよ。
その楽しさや広がりを、気軽に、多くの人が感じてくれたらいいなって思いで書いていたんです。
HPの方では書かなかったんですけど、もう一つ言いたいことがあって。
これを言ったら、コンペティションの意味が無くなるから打たなかったんですけど、ここに打っておきます。
いつからか、絵は上手い下手で判断されてしまうものになってしまって、描くことから離れてしまった人たちに言いたいんです。
確かに、人は区別をし、優劣をつけることで、自分の立ち位置を見出したがる生き物です。
それは、私もそうだし、目の前のあなたや、あなたの家族、あなたの友達、あなたの好きな人もそうでしょう。
人は、本来なら優劣をつけられるものではないと思うんです。
これを理想論だとか、綺麗事の戯言だとか、言ってもらって構いません。
別に私は痛くも痒くもないので。
むしろ、そもそもなんで優劣をつけるのかって問題に行き着くと思うんですよ。
前記した通り、自分の立ち位置を見出したがる、この点ですよね。
上下の関係を作り出すことで、社会性や秩序が生まれるのだとしたら、社会っていう観点から見た優劣っていうのは、効果があると思うし、そうして人間が社会を形成して成功した種族だとしたら人類学的にも評価されることですよね。
でも、人っていう観点から優劣を見たとき、そこからは何が生まれるのでしょうか。
言わずもがな、「差」が生まれてしまいますよね。
優劣っていうのは何によって生まれるのか。
思えばそれは、ルールによって生まれるんじゃないかって私は思ったんです。
絵の上手い下手っていう優劣は、
美術、センス、技術、あとそれを鑑賞する側の趣味嗜好っていうルールの中で生まれる優劣ですよね、ざっくり言いますけど。
スポーツ、勉強、外見など、あらゆるカテゴリーがある中で、そのカテゴリーのルールの中で生まれるその優劣は、あなたにとって何になるのか。
その優劣から生まれた『差』をバネにして、自分を高めるのか、
自分は劣っているからと、そのルールに縛られて自信、果てには自分自身を失うのか。
その人にしかわかりませんけど、選択はできます。
ただ、ルールが変われば優劣が変化するような、そんな曖昧なものに執着する必要性が、果たしてあるのかどうか。
欠陥的な評価に、自分を痛めつけることはやめたほうがいいと、私は思うわけです。
気をつけてはいるけれど、ふとした時に、思ってしまう自分は、まだまだ人間として未熟だなと思います。
という、非常に重たい気持ちを抱えた作品でもあり、
差を感じない心がもっとたくさんの人に根付いたら、世界は本当の意味で救われるし、変わるんじゃないかっていう願いを込めたものでもあります。
私個人の意見なので、これが全てということはないです。一つの見解を示しただけなので。
自分自身の心の探求をしてみてください。
もし何か見つかったら、教えてください。
私に直接でもいいですし、SNSでもいいですので。
そんな感じです。