世の中には、知らなくても生きていけることが沢山ある。そう思ったのは、ごく最近のことだけど、僕がまだ小さかった頃は、幼い物心ながら、母さんによく質問していた。ほとんどが他愛もない、些細な、日常に転がっていることだったと思う。何を訊いたのか、今の僕は殆ど覚えていないけれど、お母さん、おかあさん、と服の端を掴んでは引っ張っていた__と、僕の昔話をする時、母さんは必ずそう言うんだ。頭の片隅にぼんやりと残る記憶を、僕は見えもしないのに目を細めたりして、時間を遡っていく。確かに、聞きたがりな僕をめんどくさがることなく、母さんはいつも優しい眼差しを向けてくれていたような気がする。
だが、そんな母さんを、困らせてしまう質問が、一つだけあった。
どうして父さんは帰って来ないの__って。
今は母子家庭だけど、数年前までは、ちゃんと家に父さんが居た。背は高めでも中肉気味で、特に変わ
ったところのない、普通の人だった。あ、黒縁眼鏡をかけていたっけ。
僕が学校のテストで良い点を取って帰ってくると、まるで自分のことのように喜んで、僕の頭をこれでもかってくらいわしゃわしゃと撫でる、気のいい父さん。ソファーに深く腰掛けて、ビールを片手に大好きな野球中継を観て、そのまま寝てしまうだらしなさも、ごく普通のことだった。
そんな父さんが、ある日、家に帰って来なかった。僕は最初、仕事のせいで帰ってくるのが遅くなっているんだと思っていた。母さんもそう言っていた。でも、朝になって、眠気眼で朝食を食べていても、父さんの姿はなかった。いつもなら、ワイシャツ姿
で、新聞を広げながらコーヒーを啜っているのに。僕は不思議に思って、母さんに訊いた。
「お母さん、お父さんは?」
なんの変哲もない、何気ない、普通の質問だった__僕にとっては。明日の天気は晴れだねと、まるで他愛のない世間話のような、ありふれた答えが返ってくる軽さで。でも、母さんは違った。いつもみたいに、優しく目を細めて笑っていなかった。朝日に照らされてぼやける輪郭の中に、母さんの__困りながらも、なんとか笑って答えようとしているあの顔が、僕は今でも忘れられない。
「お父さんね__」
はっとなった僕は、目を開け、顔を上げた。項垂れるような格好で眠っていたらしい。上体を起こすと、背に硬い物が当たり、自分が椅子に腰掛けていていることを認識した。一体、いつの間に椅子に座っていたのだろう__いや、一体、誰が、僕を椅子に座らせたのだろう。ふと両手首に違和感を覚えて見てみると、太い革製のベルトで肘掛けに括り付けられているではないか。
「え、なに、これ……」
僕は堪らず、そう溢した。薄暗い部屋に充満する冷たい空気が、僕の背中に広がる汗をかすめていく。
しんと静まり返った空間からは人の気配が感じられず、不安に駆られた僕は辺りを見回した。古いガレージのような場所、砂と埃にまみれてくすんで見える木製の家具、ブリキの缶一杯に詰め込まれた工具の数々、壁に飾られている鹿の頭部の剥製__その下に整然と並ぶ猟銃と弾薬の箱。
僕の額に、脂汗が滲んだ。早くここから逃げないと……__!
僕は手首を繋いでいるベルトが緩まってくれることを願って、腕を動かすことを試みた。幸い、動かせないほどきつくは締められていないようで、金属の部分が音を立てるが、取れる気配は微塵も感じられない。
その時だった。
僕の後ろの方で、重い扉が開き、閉まる音が聞こえた。砂でざらついたコンクリートの床を歩く足音が、徐々に近づいてくる。1人じゃない__2人、いや、3人か。ふと、足音が止まる。
「あれ、起きたかな」と、最初に若い男性の声が聞こえた。
「え、あんた、ちゃんと確認して」次に、若い女性の声が聞こえてきた。少し気の強そうな雰囲気が声から感じられる。
女性に促されて近づいてくる足音が、僕の左後方で止まる。それからゆっくりと僕の目の前に、黒いフード付きのローブを身に纏った背の高い人物が姿を現した。背もたれに邪魔されつつも、僕は少しでも距離を取ろうと必死に身を引いた。その時一瞬、フードから覗く顔が見えた。この辺りでは見かけることの少ないアジア系で、端正な顔立ちの若い男性だった。
「おはよう。目が覚めた?」
醸している雰囲気とは裏腹に、柔らかい口調で話しかけてくる男性。安心させようとしている振りなのだろうか。僕が何も言わずに俯いても構わず、彼は続けた。
「起きた。オーナー呼んできて」
彼の言葉の後、小走りで遠ざかっていく足音。先ほどの女性だろうか。後方で再び、重いドアの開閉音が鳴り、薄暗い空間を震わせた。
「おっさん、香炉取って」
「おい、おっさんはないだろ。せめて先輩と呼ばんか」
「小言はいいから。オーナー来る前にさっさと準備して」
低い声の主がのっそりと動いて、若い男性の手に、金属製の丸い物が差し出された。
繊細な曲線の彫刻が、装飾で施された小さな容器だった。模様の一部のように穴が空いていて、中で白い煙が渦巻いているのが見える。穴からゆっくりと立ち上ってくる煙が、一瞬、空に昇る竜のように僕の目に映った(実際に見たことは無いけど、本で読んだんだ)。
若い男性は煙の立ち上る容器を僕の頭上に持ってくると、まるで煙を纏わせるかのように、周りを歩き出した。僕を中心として、円を描くように。
「あの、何、やってるの……?」
ただただ無言で椅子の周りを何周もしていることを不思議に思った僕は、しびれを切らして彼に尋ねた。すると彼は、
「ああ、これ? おまじないをかけてるのさ」と、さも当たり前のことのように答えた。
「それって、どんな?」
ああ、まただ。僕のいつもの癖だ。気になったら訊かずにいられない。
彼はほんの少しだけ間を置いた後、
「それは、オーナーが教えてくれるから、俺からは教えられないなあ」と答えてくれた。
しかし、間髪入れずに別の男が野太い声で
「別にいいじゃねえか、教えてあげてもよお」とこぼすと、若い男性は、深く溜息を吐いた。
「……なあ、おっさん。前から思ってたんだけど、なんでいつも雰囲気に水を差すようなこと言っちゃうの?」
若い男性は呆れたと言わんばかりに言い放った。
男の方は、呆気からんとした態度で続ける。
「教えても差し支えがないから、いいんじゃねえかと俺は思ったんだ」
「こういうのは雰囲気から作らないといけないって、オーナーがいつも言ってるじゃないか。俺よりここで仕事してる年数長いのに、なんでこうも__」
「はいっ、そこまででーす」
ぱんっ、という乾いた音ともに、また新たに別の男性の声がやってきて、二人の間に分け入った。突然の音に、僕はびくりと、両肩を震わせる。
「おいおい、いい歳した男二人が子供の前で喧嘩とは__少々みっともないんじゃないか? 見苦しい」
穏やかだが棘を含んだ物言いに圧され、僕は息を呑んだ。
「オーナー、この人また雰囲気ぶち壊すこと言うんですよ」若い男性の愚痴に耳を傾けつつも、オーナーと呼ばれている人物は口を開いた。
「なあカール。私からこんな事を言いたくはないんだが、君がいつもジュディに怒られるのは、そういうところなんじゃないか?」
「なんだよ、俺には女心がわからんと言いたいのか、オーナー」
「いや、そうではないが……ムードというのはやはり、夫婦の時間を育むためには大切な要素だと思うだろう? 違うかい?」
「うちの嫁さん、一度も俺にそんなこと言った事ないぞ?」
「……だとしたら、君は奥さんに心から感謝することだな、カール」
「……なんだそりゃあ」
この後に及んで言うのも可笑しいが、僕もカールの言葉に同感だった。正直、少しも話が見えてこなかった。もしかしたら、大人の事情というものが、ぼくの知らないところにあるのかもしれない。
草稿1 2022.10.05
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