彼氏が体育館のコート内でボールを追いかけ回している最中、わたしはひとり、地学部が使用する実験室で居眠りにふけっていた。崩れかけた化粧を直し、帰る支度を万全に整えていたというのに、当の相手は補欠がうんたらかんたらと、わけのわからない呪文のようなことを言いながら走り去ってしまった。籠に球を入れに行くのがそんなに楽しいのか。待っている間、わたしはとりあえず、持て余すには多すぎる時間を、贅沢に居眠りをして過ごすことにしたのだった。黒光りする実験室の机はひんやりとして冷たく、頬に溜まった熱と程良く混ざり合ってくれる。居眠りには最適の机だと、わたしはここ最近確信した(地学の講義はどうも堅苦しくて眠くなる)。
海の底へと、落ちていく夢を見ていた。真っ暗で、何も無い、冷たい空間。あるとすれば、それは孤独感と喪失感だろうか。わたしは、身体から力が抜けていくのを感じながら、大事に握り締めていた拳を開いた。少しばかり残っていた空気がまあるい気泡へと化し、海面へ向かって上昇していくその様子を、どこかうっとりとした面持ちで眺めていた。恍惚、そんな言葉がお似合いな気がする。
次の瞬間、肺にのしかかってくる重さに、わたしはきつく目を瞑った。どこまでも続く、暗い闇の中に押し込まれるかのような感覚に襲われる。
救いの手が欲しかった。欲を言えば、彼の華奢で頼りなさそうな、見慣れたあの手が。わたしをこの深海から引っ張り出してくれる手を、ずっとずっと前から望んでいた。
でも現れない。だからわたしは、海水に己の涙を足しながら底へと落ちていき、魚に喰われて、浄化される運命を選んだ。しかしなぜだろう、魚の餌になるまいと、必死にもがき苦しみながら、本当の自分を探している『わたし』がいる。
悪い夢から目が覚めて、ふと前を見るが、あいつの姿は無くて、酷い虚無感に苛まれる。ああ、きっとこれも悪い夢なんだ。きみだけが、わたしの世界に存在していない。わたしはもう一度、自分の腕に突っ伏して、目を閉じた。一、二、三。ささやかな魔法をかけて再び目を開けた。でも、やっぱり、きみはいない。虚しさだけで膨らんだ空っぽの胸が、これ以上はないってくらいに痛かった。
半ばやけくそになってわたしは黒い机に顔から突っ伏した。額を思い切りぶつけて、めちゃくちゃ痛くて、不覚にも涙が出た。今日はどこもかしこも痛くて嫌いだ。どうして人間には痛まないところがないのだろうと、大して回ることもない頭で考えていた。
すると世界のどこかから、ドアの開く音がした。聞き慣れた足音が近づいて、わたしのすぐ隣で止まる。「おーい」と、頭上から耳へ目掛けて覚えのある声が降ってきた。ああ、あいつの声だ。高くもなく低くもない、心地よく響く彼の声。
「生きてんの?」
「メーデー、メーデー、死にそうです」
「まじか」
まるで他人事のように彼は言い放って隣にしゃがみ込んだ。
「ライフラインなりましょうか?」
彼がぽつりと言ったのとほぼ同時に、わたしは突っ伏していた顔を上げた。膝をつきながら不思議そうな目でわたしを見る彼と目が合った。泣いた顔が酷すぎるのか、ぎょっとした表情で固まった彼を構うこと無く、わたしはぎゅうっとしがみついて、首元に顔をうずめた。どういう状況なのかいまひとつ把握ができていない彼は、すこし間を置いてから、なだめるように背中を撫でてくれた後、やんわりと抱きしめてくれた。大好きなにおいが、首の後ろからしていた。
「……練習試合どうだったの」
「あー、四点差で負けた」
「そっかあ」
「言葉は悪いけどさ、所詮ただのボール遊びだし。それに……__」
彼は続けるはずの言葉を呑み込んだ。わたしも、その言葉の続きを求めようとは思わなかったし、訊けるはずがなかった。
「でもさ、そのボール遊びが、戦術を学ぶ為の手段なんだって知ってた?」
「それさあ、この間の講義で教授が言ってたやつじゃん」
「あ、バレたか」
わたしは短く笑った。彼も短く笑った。お互いの表情は、今のこの体勢じゃあ見えないけれど、きっと、はにかんだ時にみせる、あの優しい顔で笑っているのだけはわかったんだ。
空気のようなきみ
空気ぐらい必要なきみ
空気以上に大切なきみ
憂鬱な月曜日の空気も、きみがいるなら、また頑張って息をしてみようと思うんだ。
2010.10.07
2016.08.22 加筆・修正