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Casper

Humm


 部屋の掃除ついでに溜まったダイレクトメールを整理していると、三年ほど前に離ればなれになって、写真家になって忙しなく世界を飛び回っている彼氏から手紙が届いていた。日付はまだ新しく、一週間ほど前、ここへ入れられたようだった。洒落た封筒の裏、達筆な字で自分の名前が書かれてあることに、わたしは少々の違和感を覚えた。そして笑った。あの不良が、手紙を書いている姿を想像してみると可笑しくて、可愛らしく思えた。今や電子メールでやりとりができる時代だというのに、こうして古典的方法を選ぶ辺りは、彼の根っこの良さを伺える。

 今回は一体、何が書いてあるのだろう。わたしは丁寧に糊付けされた封に手を付けた__ちょうどその時、良いタイミングだと言わんばかりに、脱衣場の方で洗濯機が鳴った。わたしは手にしていた封筒を机に置いて、洗濯機が呼んでいる方へと向かった。あとで見よう、あとで。

 洗濯物を取り出したわたしは足早にベランダへと出た。小さくて狭いベランダには、手をつけていないままの園芸キットが何個か放置されている。しかも、何故か、ミニトマト。休みの日に植えようと思っていたのはいいが仕事にかこつけて結局そのままで、何もしていないのが現状だ。あと一ヶ月、このままだったら大家さんにあげようかな。ブラウスを干しながら、ふと思った。

 干し終えたわたしはその場に座り込んで、紫外線を浴びて色褪せてしまった園芸キットのパッケージを眺めていた。そもそも、なぜミニトマトを育てようと考えたのだろう。数ヶ月も前のことを今頃になって考えてみるが、頭を捻らせたところで何か思い出せるわけでもない。さてさて、どうしたものか。自給自足を、今こそ始めるべきか。わたしはぼんやりと、風に流されていく雲を眺めながら思った。くすんだ水色の空に溶け込む白はどこかノスタルジックで、懐かしい気持ちを起こさせる。視線をずらしてビル街の方を見ると、飛行機雲が空に一本の白線を引いていた。先ほどまでは無かったのに。

 ああ、そういえば。

 思い立ったわたしは、洗濯物を取りに行く際、後回しにした手紙を手に取り、封を開けた。一瞬だが、その封筒の中から彼が身につけていた香水の匂いがしたような気がした(でもやっぱり自分の気のせいだった)。危険防止用の手すりに頬杖をつきつつ、手紙を読み始めた。

 元気にしていますか。

 きみに会えなくなって、もうすぐ三年が経とうとしています。俺が度々送っている絵葉書や手紙は届いているのでしょうか。いつも出張先の海外から送っているのでびっくりするでしょうが、俺が好きでやっていることなので軽い気持ちで見てもらえればと思います。なんでメールにしないのかっていうのは、俺の性分に合わないからってのもあるし、きっと返信を気にし過ぎて仕事にならないと、自分でわかっているからです。でも、もし、俺の意固地できみに寂しい思いをさせていたのなら、謝る。ごめん。

 今更、あの時のことを遡るのも野暮だけど、きみが東京へ行ってしまうあの日、俺はずっと言えなかった言葉を伝えようと思っていた。けど、できなかった。だって、俺、そんなクサいキャラじゃねえし。言ったらきっと困るじゃん、たぶん。って、そんなどうでもいい理由を延々と空港で考えてた自分を思うと、情けなくて恥ずかしいです。ダサすぎて笑える。

 俺はひとりになって、もう一度、きみに、恋をしました。隣にいないはずなのに、なぜだろう、とても愛おしく思えたのです。初恋の時のような気持ちと、よく似ているように思います。昔からなりたかったフォトグラファーになって、色々な国を見てきて、いつか一緒に来ようと、誠に勝手ながら妄想していたり。

 一年のほとんどを海外で過ごしてるせいもあって、なかなか顔を出しに行けなくて……いや、会うことができなくて、本当にごめん。今回は次の仕事まで日本での滞在期間が長くなるみたいだから、ちゃんと、きみに会いに行こうと思います。

 おそらくこの手紙が届いて、一週間ほど過ぎた頃に。もしかしたら、前後することもあるかもしれないので、あまりあてにしないで。

 よろしく。

 じゃあ、また。

 追伸

 ビール冷やしておいてくれるとすげえ嬉しい。

 どんな気持ちで、こんな気恥ずかしい手紙を書いたのだろう。読んでるこちらが恥ずかしくなってくる。しかし、そう思う反面、嬉しいと感じている自分が、確かにいる。封筒の中には便箋の他に、綺麗な熱帯魚の写真と、絵葉書が添えられていた。絵葉書の裏側には、英語の文章が書かれており、自力でなんとなく直訳してみるが、いやはやなんとも言えない出来映えの日本語訳になってしまった。

 わたしがもう少し若かったら、この手紙をどうしていただろう。今までもらってきた絵葉書も手紙も、まるで近況報告かと思うくらいあっさりしていたから、反応に困ったのではないだろうか。悪ふざけ、とも思うかもしれない。彼と付き合う前のわたしは、異性に好かれるのが恥ずかしくて、こそばゆかったから。でも、もう、そんなことはない。自分でもわかるほどに年を重ねて、少しだけ、大人になったから。

 彼が帰ってくる。周りのカップルから見たら、単純でどうってことのない、当たり前のことさえも、わたしは純粋に嬉しかった。当たり前というものの大切さは、その『当たり前』という待遇を受けられなくなった時、痛いほど身に染みるものだと思う。

 その時だった。普段から滅多に鳴らないボロアパートのインターホンが部屋に響いた。今日は珍しく己の役割を果たしている。もしかして。その期待は、わたしの身体を動かしていた。履き慣れてクタクタになったサンダルを足に引っ掛けて、玄関のドアを開けた。

「うわっ」

 勢いよろしくドアを開けすぎたせいで、わたしはコントロールを失った紙飛行機のようにふらふらゆらゆらと、目の前に現れた白くて広い場所へと落ちてしまった。

少しの間のあと、

「……大丈夫?」

 と、白の主が発した声が、わたしの頭の上に心地よく降り注いだ。久方ぶりに聞いたその声はあの日から何も変わっていなくて、安堵するのと同時に、どきんと、わざとらしいくらいわたしの胸は高鳴った。

 恐る恐る、ゆっくりと顔を上げると、待ちわびた人の不安そうな色を帯びた目は、わたしの顔を見た次の瞬間にはもう変わって、穏やかな春のひだまりのような、優しい色をふわりと纏った。くしゃっと笑うその無邪気な笑顔も、三年前と、なに一つ変わってなんていなかった。

「ただいま」

 で、いいのかなあ?

 と笑いながら彼が言うものだから、わたしは、長い間ずっと溜めていた涙をこぼしそうになった。

 三年ぶりに会った彼は、どこか大人びて見えた。身長がまた少し伸びたような気がして、視線を合わせるのが難しい。髪色は金からダークブラウンになり、髪型も重さを抑えたショートマッシュになっていた。なんというか、

「……いつの間に、そんなかっこ良くなっちゃったの?」

 と、わたしは思ったことをそのまま発したら、彼は驚いて「ええっ、ないない」と大げさなリアクション付きで否定する。こっぱずかしいのか、彼の耳がほんのりと朱色に染まった。なあんだ、中身は全然変わってないや。その様子に、わたしはふふっと笑う。

「元気そうで安心した」

 彼の華奢で大きな手に引き寄せられて、そのまま腕の中へ。久しぶりの感触に緊張しながらも、ここに、確かに存在している彼を確かめるように呼吸をして、胸に耳を傾ける。彼の着ている白いシャツからは、今まで感じたことの無いような不思議な香りと、日向臭い異国のにおいがした。それは初めてのもののはずなのに、まるで子供の頃から知っているかのような、妙な安心感があった。

「あー、安心したら腹減った」

 そうこぼす彼はミネラルウォーター以外、朝から胃に何も入れてないらしい。気づけばもう三時を回っていた。

「お昼に作って余った焼きそばならあるよ?」

「まじで、ください」

「あ、でもその前に」

「うん」

「久しぶりにキスして」

 わたしは一体なにを言っているんだろうか。

 でも、ずっとずっと憧れていた。それを、どうかわかってほしいのだ。

 彼は予想もしていなかった言葉に驚いたあと、ふっと柔らかく笑った。

「はいはい」

 言葉とは裏腹に、嬉しそうにそう答えたあと、静かに唇を重ねてくれた。久しぶりの感触に、麻痺したような心地よさが全身に広がって、わたしの身体はとくんと脈を打った。まるで会えなかった時間と距離を埋めるかのように、少し長めのキスをした。たまたま通りかかった高校生たちに芸の欠片も無いような野次を飛ばされたが、わたしたちは気にしなかった。

2009.12.05

2016.08.23 加筆・修正

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